「地味な史跡めぐり(3):三重城『臨海潮聲』」からの続きです
さて、葛飾北斎『琉球八景』を眺めてきたわけですが、 今回は以下の作品を検証してみました。
…まだ 5 枚も残っています。状況は以下の通りです。
ということで、ちょっとこの辺りの状況を整理してみましょう。
現在の泉崎橋 (地図はこちら) とは少しずれた場所にこの橋はあったようです。 孔子廟の前とのことなので、現在の那覇商工会議所の辺りです (地図はこちら)。 現在の久茂地川の流れはスムーズな逆 S 字カーブを描いていますが、 当時はどちらかと言えば「N 字カーブ」という感じだったため、 旭橋からこの泉崎橋あたりまで、 現在の国道 58 号の場所に久茂地川が流れていたようです。
かつての孔子廟の写真 (昭和初期と思われます) を見つけましたが、 左に旧泉崎橋の一部が写っています。 確かに中央が少し高くなった石造りの橋のように見えます。 この写真、もう少し左を向けば北斎の絵とほぼ同じ構図になりそうです。
それにしても、人力車、大八車、頭の上に大きな荷物を載せた女性 (?) など、 モータリゼーション以前の風景ですね…。
……ん、そういえば…あった筈だぞ (ごそごそ)。 はい、以前那覇に来たときに、 夜に商工会議所の前で撮った写真を発見しました (笑)。 おそらく、上の写真の中心付近から右側を撮ったアングルです。 先述の通り、当時のこの辺りの久茂地川は、現在では国道 58 号でしょう。
すっかり変りましたね…。 ということで、この写真の場所が北斎の絵では橋の右側から向かって右側を撮ったアングルと思われます。 時間も夜だからちょうどいいですね (笑)。 この写真の右側に、旧泉崎橋があったのでしょう。
この絵に関しては、11 月に那覇に行った際に再検証しました。(2005/01/09 追記)
久米村はかつての那覇のチャイナタウンであり (本当に何百年たっても人間の行動は変らないものですね…)、 中国との交易に重要な役割を果たしました。 現在ではそれを記念した福州園などがあります。 でもこの場所がどこにあたるのかは本当にわかりません (西村なら西の海沿いかも知れませんが…)。 久米村には池などもあったようなので、 ここは海でない可能性も?
演出過剰でついに雪まで降らせてしまった北斎先生。 場所は奥武山の龍洞寺 (現存しない) らしい (「沖縄歴史地図」による)。 ここで紹介されている「那覇読史地図」には、 当時島であった奥武山の東岸に龍洞寺が残っています。 確かにこの地図を右上の方向から見ると、 北斎の絵のような地形が見えるかも知れません…。 でもちょっと現在からは想像不能です。
ためしに、現在と大正時代の比較図をまたしても作ってみました。 ただし、精度は低いので参考程度です。 これを見ると、陸上競技場と武道館の間あたりっぽいですね。 今度那覇に行ったときに見に行ってみようっと……。 ……まぁ、何もないと思うけど (笑)。 ちなみに、東側から見た古い写真は発見できませんでした。
この絵に関しても、11 月に那覇に行った際に再検証しました。(2005/01/09 追記)
波の上宮であることはわかるけれども何となく納得できない。 …と思っていたのですが、その違和感はこの絵でいう左側の海にありました。 今はその部分が全部陸地になっていて、 建物が経っていたり、教習所とかになっているんですよ。 私が以前行ったときの写真が 2 枚ありました。 絵とは撮った向きが反対ですが。
昭和初期と思われる波の上宮の写真を見つけました。 これを見ると、絵とほとんどイメージの差がありません。 この砂浜のような場所が以前は海だったのでしょう。 このころはまわりに何もなかったのですね。
これは本当にまだ全くわかりません。 ただ、「樋川」という町名からして湧水があったことは確実そうですね。 今度那覇に行ったときに確認してみます。
この絵に関しては、11 月に那覇に行った際に再検証した結果、現在の位置が判明しました。(2005/01/09 追記)
ということで、課題をいくつも残しつつ、今回は終了。