2004 年 7 月 26 日 (月) 那覇

長虹堤 〜琉球王国首都の「レインボーブリッジ」〜

ゆいレール美栄橋駅からの眺め。 現在の姿からはとても想像できないのですが、 ダイエー那覇店 (旧ダイナハ) のそばにある緑の丘、 そしてその前の何と言うこともない那覇の街の姿。 こじんまりとたたずむこの景色こそが、 国際貿易港であった那覇港から、 在りし日の琉球王朝の首都へと繋がる物流ルートとして利用された、 海中道路の痕跡の一部なのです。

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それを描いたのが葛飾北斎『琉球八景』の 1 枚『長虹秋霽』です。 1451 年、首里城に脇にある人造湖「龍潭」を造営したことでも知られる、 中国人風水師であり国相の懐機は、尚金福王の命を受け、 湾に浮かぶ洲状の島で、当時「浮島」と呼ばれた那覇から、 首里までの冊封使節を向かえるルートとして、 現在の松山交差点付近から崇元寺付近に至る浅瀬に、 長さ1kmにもおよぶ海中道路を造営しました (「浮島」の名は、現在でも「浮島通り」などの地名として残っていますよね)。

葛飾北斎『琉球八景 / 長虹秋霽』

これは石造りの土手と 7 つの海水を逃すための水門 (= 橋) で構成され、 「長虹堤」と名付けられました。

「長虹堤」…、現代風に言えば「レインボーブリッジ」でしょうね。 所詮人間の考えることなど数百年経ってもそう変らないものです (笑)。 これで冊封使だけではなく、 那覇と首里の物流ルートが大幅に改善し、 近距離港として利用された泊港への物流も改善されました。

「長虹堤」の現在の場所に関しては、 松山一丁目にあったイビガマ (イベガマ、ヱビカマの表記もあり) という場所 (御嶽と思われる) から出発し、 美栄橋を通過して十貫瀬(じっかんじ)を抜けて崇元寺橋に至るルートである、 というのが通説のようで、これは現在でも資料さえそろえば簡単に検証できます。 あとで検証しましょう。

ちなみに崇元寺の建立は 1527 年とか 1572 年 (これはたぶん typo) とかいう説が Google では多数ですが、 よく読むと多くの記述では「1527 年と推測される」などと推測形になっています。 ちょっと資料を調べてみると疑問もあります。 以下は琉球關係文書 七 元國事鞅掌史料からの引用です。 これは薩摩藩の資料なので元号は日本の元号です (琉球の資料であれば中国の元号が使用されていました)。

明應元年尚真寺ヲ首里ノ当藏村ニ創建シ圓覺寺ト稱シ其祖先ノ靈牌ヲ安置ス
三年寺ヲ泊村ニ建テ崇元寺ト稱シ舜天王以下累代ノ靈牌ヲ安置ス

明應三年は 1495 年であり、こちらの方が正しそうに思います。 それにしても首里の円覚寺とほとんど同時期の建立なのですね。

北斎の絵に描かれているのは、東京に帰ってきてからさまざまな資料を検討した結果、 確かな根拠はありませんが、私は旧美栄橋だと考えています。 旧美栄橋は現在の美栄橋 (沖映通りが久茂地川と交差する) よりも多少西に位置する橋であり、 そして後ろに見える小さな丘こそが、 現在ダイエーの横にある丘であると考えるのが自然だと思います。

昔の絵に見る長虹堤

長虹堤に関する画像資料をいくつか検討してみましょう。 まずは「琉球貿易図屏風」。 この絵はかつての那覇の姿をかなり写実的に表現しており、 貴重な資料であるようです。

琉球貿易図屏風の一部

確かに、遠近感などはともかく、トポロジー的にはかなり正確に書き込まれているように見えます。 この絵の下の方に描かれているのが当時の長虹堤の図です。 ただしこの絵は 19 世紀初期に描かれたものとされ、 既に「浮島」とされていた頃の海岸線は失われており、 長虹堤もそのほとんどが陸路となっています。 手前の大きな橋が美栄橋、後ろのそれより大きな橋が崇元寺橋と思われます。

琉球貿易図屏風に描かれた長虹堤

私が北斎の絵が美栄橋ではないかという説を取るのは、 この絵の中で北斎の絵に似た構造の橋が美栄橋しかないためです。 ころあいも良く橋の前後に丘もあり、橋の手前(海側)の丘は小さく、 向こう(山側)の丘は大きくなっています。

明治初期の「那覇市読史地図」では次のようになっています。 地図内にきちんと「長虹堤」という名が記され、 「イベガマ」から「崇元寺橋(安里橋)」に通じています (現在、安里橋という正式名称の橋が別にありますので、 その安里橋とは区別してください。ちなみに地図はここ)。

那覇市読史地図での長虹堤

途中、美栄橋のそばに「七ツ墓(七星山)」と書かれている小高い地形がありますが、 これが北斎の絵でいう向こう側の丘、 そして先ほどのダイエー横の丘であると思われます。 ちなみに、「七つ墓」は十貫瀬の語源ともなった場所のようです (明確な資料はないのでまだ自信なし)。

長虹堤のルートや構造に関する関連資料を一つ示します。中山傳信録 (康煕六 十年, 1721年)。

自天使館至先王廟,二里許。天使館東有天妃宮,宮前有方沼池。過池,東北沿 堤行不半里,有泉崎橋。橋旁有孔廟,由廟東行數百歩,北折爲長虹堤堤長亘二里許,下 作水門七以通潮(堤旁有小石山,名七星山 ;七石離立沙田中)。堤盡,北折爲安里橋 (此處地名安里,故名。「汪録」作「眞玉橋」,誤;〓有眞玉橋,在 豐見城北玉湖中山傳信録 四五 臺灣文獻叢刊 四八之上) 。過橋東折,即 中山先王廟。廟前,松岡數重。左右流澗寛丈 許,環注安里橋下入海。廟前石路方廣,左右立木坊及「下馬」石碑,左右各一。 廟垣四周,皆砺石磊成。正中作圈門三,左右角門二。門内前堂三楹,〓「肅容」 二字;即祭畢設宴待客之所。更進,甬道東西廳各三楹,〓(土皆)下兩叢鐵樹 攅鬱。正廟七楹,堂楹之上,前使臣張學禮題「河山帶砺」 、汪楫題「永觀厥 成」二〓倶在(臣等亦書「世篤忠貞」四字,懸其次)。堂西,神廚二楹;東爲佛 堂,前後六楹−−旁三楹,爲曾廚。

ということで、ゆいレール美栄橋駅から崇元寺まで散歩をはじめましょう。

ダイエー裏の七つ墓

美栄橋駅前です。 右に小さく、新修美栄橋碑という碑が写っていますが、 時間がなかったのと、ここに行った時点ではまだ碑の存在を知らなかったので、 よく見ていなかったし、写真を撮っていません。 今度那覇に行った時にぜひ見に行きましょう。

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先ほど紹介したページによると、説明文はこんな文面だそうです。……しまった、もっとちゃんと見ておくんだったよ。

いにしえの那覇は「浮島」と呼ばれる島であったため、首里との交通は不便でした。 そこで尚金福王は、1452(景泰3)年、冊封使を迎えるにあたり、国相懐機に命じて崇元寺前からイベガマ(現松山1丁目付近)に至る約 1km の「長虹堤」という、海中道路を築かせました。「長虹堤」には3つの橋が架けられたといわれ、美栄橋はその内の一つでした。

那覇が発展していくに従い、美栄橋は手狭になり、さらに上流からの土砂が橋の付近にたまって浅くなってしまいました。そのため、川を浚え、橋を架け替えることになり、1735(康正13)年10月8日に着工、翌年2月6日に竣工しました。その経緯を記してあるのが新修美栄橋碑です。正議大夫揚大荘が文をつくり都通事揚文彬がこれを書き上げました。碑文には工事に要した費用なども記され、当時の経済状況もうかがい知ることができます。

その後美栄橋は1892年(明治25年)に改修されましたが、沖縄戦で破壊されてしまいました。しかし碑だけは原形を留め、付近の民家に保管されていたものを現在地に移して保存しています。

さて、例の丘に行ってみましょう。この丘は現在の地図でも墓地とされており、 実際裏には亀甲墓がいくつかあるようです。

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丘の横は屑置き場のようになってしまっています。

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建物の造成時に一部を削った跡があります。 以前は現状残っている部分より少し大きな丘だったのでしょう。

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上部には明らかに人間の手が加わった跡があります。 ただ、いつの時代に作られた壁かはわかりません。

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まあ、そうは言っても、何も知らずに見たらただのゴミ捨て場だね… (笑)。

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さて、 それではかつての長虹堤の跡である「美栄橋→崇元寺ルート」の場所をあらためて検証し、 その跡である十貫瀬を歩きましょう。


『地味な史跡めぐり(2):長虹堤『長虹秋霽』[2/3]』に続く。


参考文献


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