『地味な史跡めぐり(2):長虹堤『長虹秋霽』[2/3]』からの続きです
ということで、長虹堤最後の橋である安里橋こと崇元寺橋を渡ると、 崇元寺の石門が見えてきます。 冊封使が来たときに、まずここで先王を祀る式典を行ったそうです。
ちなみに、昭和初期の崇元寺石門の写真がありました。 あんまり変っていませんが、現在の石門は戦後再建されたもののようです。 前には現在は存在しない路面電車の軌道が見えます。 名前は「沖縄電気軌道」。 しかし「電気」鉄道のわりに架線や第三軌条が見えないのはなぜ? ところで、 よく、「沖縄戦で鉄道は壊滅し、ゆいレールで約 60 年ぶりに復活した」と聞きますが、 この路線は純粋にバスとの競争で廃れました。 沖縄戦で消滅したのは「沖縄県営鉄道」です。
門の中には荘厳なガジュマルの木がたっています。
さて、結局のところ、長虹堤というのはどんな場所だったのでしょう? 写真が見つからない現在では推測するしかありません。
一枚、そのヒントになりそうな写真を見つけました。 Charles S. Leavenworth "The Loochoo Islands" ("Ryukyu Studies since 1854 -Western Encounter Part2-" に収録) に掲載されている "Road from Naha to Shuri" と題された写真です。
この写真は正確な撮影場所が書かれていませんが、 私は崇元寺を過ぎて首里に向かう安里を少し過ぎたあたりの首里街道の写真…、 ではないかと考えています。 もっとも、長虹堤そのものであることを否定する決定的な根拠もありません。
この写真、何か既視感を覚える…と思ったら、 有名なペリー提督来琉時の絵でした。これです。 これは確実に同じ場所でしょう。この写真や絵の場所はどこでしょうか? 前を流れる非常に細い川とそれに架かる橋は参考になるでしょうか?
もう一度、「琉球貿易図屏風」を見てみましょう。 崇元寺を出て首里に至るまでの道で橋は 2 本描かれていますが、 下の橋は首里へのメインストリートではないと思います。 したがって上の橋だと思われます。 しかしそう考えるとメルパルクや都ホテルの少し手前の真嘉比川(安里川支流)と現在の県道29号の交差ということになり、 「あそこはこんなに傾斜が緩やかだったか?」とか考えてしまうのですが、 今度行ったときに確認しましょう。
いずれにせよ、「琉球貿易図屏風」においても、 長虹堤部分と安里を過ぎた辺りは、ほとんど同じ雰囲気で絵が描かれています。 したがって、場所の詳細はともかくとして、江戸後期から明治大正にかけての長虹堤は、 丁度この写真のような雰囲気だったのでしょう。
追記: この写真に関しては、後日検証しています。
はてさて、まだいろいろ課題を残しつつ、長虹堤跡の探検は終了。 この景色、ゆいレールの軌道の向こうに長虹堤は確かに存在していたのです。 次は…三重城だ! 時間がないのでタクシーを拾って波の上方面に向かいます。