『地味な史跡めぐり(2):長虹堤『長虹秋霽』[1/3]』からの続きです
さて、美栄橋から崇元寺までのルートですが、現在でいうどのようなルートをたどっていたのでしょうか? 那覇は沖縄戦で全く町並みが道筋を含めて消えてしまいまっています。 したがってできるだけ古く、かつできるだけ正確な測量に基づいた地図が必要です。 実は、当時の学者の尽力により GHQ による焼却を免れた、 大正 8 年測量の 25,000 分の 1 の那覇の地図 (軍機) が存在しています。 俗に知られているのは大正 10 年測量の 50,000 分の 1 図ですが、 細かい部分の解像度が全く違い、当時の那覇の姿を正確に伝えています。
この図には見事に長虹堤の姿が残っていました。 これを現在の地図と重ねることで、長虹堤の場所を知ることができます。 まず、出来るだけ大きな現在の地図を用意します。 南北の方向はそろっているので、 あとは上下左右にずれのある 2 つの固定ポイント (当時と現在で位置が動いていないと考えられるポイント) を画像処理ソフト (gimp を使用) で合わせると、真実がそこから浮かんできます。 今回は固定ポイントとして崇元寺の石門と波上宮を用いました。
この結果は以下の通りです (余談ですが、右下に斜めに通っている道路が国際通りです。 昔は全く国際通りの場所には道が存在しなかったことがわかります)。 これだけでは要領を得ないので、ポイントを絞って解読しましょう。
長虹堤の起点となったイビガマですが、 先ほどの「読史地図」では、長虹堤の突当たりが道に交差する付近となっています。 また、美栄橋からイビガマに至るまでは全く道筋が失われており、 たどることはできません。イビガマは松山1丁目付近と書かれている資料が多いですが、 今回の結果では松山1丁目と2丁目の間あたり、 …いや、どちらかと言えば2丁目8番付近のように見えます。
で、結局イビガマって何よ? と思ったのですが、 一つイビガマに触れた資料を発見しました。 中山世譜巻一、 ということで、有名な歴史書でしたね。
二年辛未。遣亞間美等。貢方物。(時未以王訃告)景帝。命齎勅并文綺・綵幣。歸賜尚思達王及妃。勅曰。
...(略)...
本年。遣使請封。時以那覇阻海。往來不便之故。命 國相懷機。築長虹堤。(自安里橋。至伊邊嘉麻橋。 曰長虹堤)
築畢。懷機返愿。建神社并寺。名其寺曰長壽。(社 及寺。倶今存)
ここではイビガマ(伊邊嘉麻)「橋」とされています。 要するにイビガマが何であろうが、そこに橋があったことは確実のようです。 沖縄では「イビ」というと「拝所」だと思いますが、 やはり御嶽のような場所だったのかな?
美栄橋付近では久茂地川の流れが大きく当時と変っています。 おそらく、 現在で言う久茂地川の流れ自体が、 当時の長虹堤の橋 (水門) の位置に合わせて人工的に作られた、 もしくは水門の存在によって自然発生したものだったのでしょう。 既に長虹堤が意味をなくしたことで、 久茂地川も自然なカーブに整形されたものと思われます。
まずわかるのは、 旧美栄橋はまさに今のゆいレール美栄橋駅の真下であったことです。 そして、七つ墓は間違いなくダイエー横の丘のことであることがわかります。 さらに、美栄橋以東は一応、現在も長虹堤跡の真上に道があることがわかります。
さらに良く見ると、 当時のガーブ川の流れと、 ダイエー横で暗渠から出てすぐに久茂地川に注ぐ現在のガーブ川の流れの微妙な差違もわかりますし、ここが海岸のすぐそばであったこともわかります。
このルートは、 最後の崇元寺橋(安里橋)以外はほとんどそのままルートが現存しています。 素晴らしい (崇元寺橋を安里橋とも呼ぶのは、崇元寺の建立以前も長虹堤が存在していたから、 ということのようです)。 この辺りは十貫瀬 (じっかんじ) と呼ばれる地域で、 戦後は風俗街であったようです。 もちろん、崇元寺橋自体は現在も存在しているのですが、 当時の崇元寺橋と場所が異なり、少しだけ上流側にかかっています。
方々探したのですが、長虹堤自体の写真はほとんど見つかりませんでした。 ただでさえ、戦前の写真は沖縄戦の戦災で焼失してしまったものが多いのでしょう。 数少ない写真の中に、旧崇元寺橋 (旧安里橋) の写真がありました。
石が組み合わされた美しい橋です。おそらく在りし日の長虹堤はこんな感じの堤が、 1km ほど続く姿だったのでしょう。 この写真は「沖繩縣人物風景寫眞帖」(1930年)という本に収録されていたもので、 ハワイ大学に残されていた蔵書を元に 「望郷 沖繩」という本の第五巻として復刊されています (1981年)。 この写真の解説には次のように記されています (仮名遣いと句読点を現代風に直しました)。
長虹堤(俗に十貫瀬)の尽きるところ、 安里川に架かるこれを渡って右に曲がれば崇元寺である。 一名、安里橋とも言う。橋に石欄をもうけてあって、 その魚貝の彫刻は琉球独特の図案である。
ここでは十貫瀬という名前と長虹堤という名前が同一視されています。 ちなみに、この崇元寺橋の欄干は沖縄戦における崇元寺橋崩壊で失われましたが、 1999 年にアマチュア民具収集家によって一部が発見されました。
さて、十貫瀬にはこのラーメン屋と美容室の間の道から入ります。
この道が十貫瀬です。かつては 1 ドル売春街だったそうですが、 現在はその面影はほとんど全くありません。 知識がなければ全くわからないでしょう。 もはや普通の住宅街となりつつあります。
ここにもかつて浅瀬に位置していたと思われる小さな丘があります。
大正時代の地図でも、等高線で高台になっていたことがわかります。
また、「琉球貿易図屏風」にも、同じ位置と思われる場所に小さな丘が描かれています。
おそらくこの丘は昔から長虹堤の側にあったものなのでしょう。 現在の地図上は墓とはなっていませんが、 中を見るととても古い墓のようなものがたくさんあります。
さらに十貫瀬を崇元寺側に進みます。 かつてはここが那覇と首里を結ぶ物流の大動脈であったということは、 もはや全くわかりません。
ここが現在の崇元寺橋です。
実は東京に戻ってきてから気が付いたのですが、 先ほども書いた通り、崇元寺橋も再建後に場所が動いているようです。 現在の崇元寺橋は旧崇元寺橋より少し上流側に位置しているようで、 もう一つ手前で左折すると丁度旧崇元寺橋 (安里橋) の場所に出るようです。
以上、もしかしたら間違っているかも知れませんが、 現在入手可能な資料を用いた、十貫瀬付近の長虹堤跡の分析でした。 歴史って奥が深いね〜。
『地味な史跡めぐり(2):長虹堤『長虹秋霽』[3/3]』に続く