真夏の末吉宮
首里末吉の「しむじょう」から、少し歩くと琉球八社の一社、末吉宮があります。 今回の最初の那覇滞在時は天気が悪かったので行かなかったのですが、 今日は素晴らしい天気。でもモノクロームで撮ってみます。 カメラはニコンF3。フィルムはフジ・アクロス。
この場所、好きな場所なので沖縄に来るとほぼ必ず行っています。
参道である末吉宮磴道。すごい雰囲気の道です。夏はさらに生物の気配がすごい密度。
山の上の方に登ると末吉宮の本殿があります。 小規模な清水寺のような構造で、斜面に立てられています。
しかしおそらく本殿はこの神社の中心地ではなく、 中心はその奥にある「子ぬ方」(にぬふぁ)という聖地だと思います。 このガジュマルの根は上にある子ぬ方から生えてきているもの。
子ぬ方に至る道。ここも素晴らしい場所です。 しかし、ここですごい雰囲気を醸し出していたガジュマルの樹が、 しばらく前に何本か斬られてしまい、残念。
階段を登っていきます。このあたりは大きな石灰岩がたくさん山の上に並んでおり、 隙間の階段や、岩の間にかかった橋などを渡って上ります。
階段から後ろを振り返ります。
振り返って本殿を見ます。奥の方に首里の日航ホテルも見えますね。
この奥が子ぬ方です。
「子ぬ方入り口」とあります。この奥には入りません。 世界の軸のような場所、なのだそうです。 「子ぬ方」という名前は、首里城から北のほうにあるために付けられたもの。
子ぬ方の近くに「大名口」(おおなぐち)と呼ばれる末吉宮の入り口があります。 こちらには鳥居があります(末吉宮磴道方面には鳥居がない)。 この鳥居を入ったところを左に行くと子ぬ方、右に行くと末吉宮の本殿です。
大名口にはこのような由緒の書かれた看板もあります。
これによると、
- 主祭神は伊弉冉尊(イザナミノミコト)、速玉男神(ハヤタマヲノミコト)、 事解男神(コトサカヲノミコト)で、旧称・熊野三所権現ノ神(現称・熊野三宮ノ神)。
- 別鎮斎は土祖神(ツチミオヤカミ)、澳津彦命(オクツヒコノミコト)、 澳津姫命(オクツヒメノミコト)(通称・竈神(カマドノカミ)・火神(ヒヌカン))。
- 末社は地神・荒神(宮の脇、洞窟)
だそうです。あの本殿の奥のただならぬ場所を「宮の脇」というのかな? 洞窟もあるらしい。
「御神徳」には次のように書かれています。 沖縄における、伊勢神宮のような存在とでも言えるのかもしれません。
国家守護・国泰民安・五穀豊穣
一般には子方(ニーヌファ)の神(事始の神)、学業・技芸成就、縁結び(ヤハンメー)、子孫繁栄の神として親しまれる。
琉球八社は安里天満宮を除き全て熊野の神様が祀られています。 もしかしたら琉球一帯に補陀洛僧が漂着した伝説とも関係があるのかもしれません。 ちなみに補陀洛僧とは、「補陀落渡海」を行った僧のことです。補陀落渡海の解説をWikipediaから。
補陀落渡海(ふだらくとかい)は、日本の中世において行われた、捨身行の形態である。
この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体(陀落山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化する。
最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたという。この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある。
熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀落山寺の住職が渡海行の主体であったが、例外として『吾妻鏡』天福元年(1233年)五月二十七日の条に、下河辺六郎行秀という元武士が補陀落山で「智定房」と号し渡海に臨んだと記されている。
補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。
ということで、大名口から儀保駅まで歩きました。素晴らしい天気です。
慶良間の島々も遠くにきれいに見えています。
続く。