さて、 前回も十貫瀬をたどった長虹堤跡ですが、 今回はせっかくなのでイビガマから崇元寺までの長虹堤跡をたどり、 その後旧首里街道を歩いて首里まで行くことにしました。 これがかつての那覇と首里を結ぶメインストリートに相当する経路です。 これは巨大な海中道路であった、 在りし日の長虹堤を描いた葛飾北斎・琉球八景『長虹秋霽』。
もう一度前回参照した長虹堤に関する古い記述、再掲しておきますね。 強調表示しているのは、重要な地名その他です。
自天使館至先王廟,二里許。天使館東有天妃宮,宮前有方沼池。過池,東北沿堤行不半里,有泉崎橋。橋旁有孔廟,由廟東行數百歩,北折爲長虹堤。堤長亘二里許,下作水門七以通潮(堤旁有小石山,名七星山 ;七石離立沙田中)。堤盡,北折爲安里橋 (此處地名安里,故名。「汪録」作「眞玉橋」,誤;〓有眞玉橋,在豐見城北玉湖中山傳信録 四五 臺灣文獻叢刊 四八之上) 。過橋東折,即 中山先王廟。廟前,松岡數重。左右流澗寛丈許,環注安里橋下入海。廟前石路方廣,左右立木坊及「下馬」石碑,左右各一。廟垣四周,皆砺石磊成。正中作圈門三,左右角門二。門内前堂三楹,〓「肅容」二字;即祭畢設宴待客之所。更進,甬道東西廳各三楹,〓(土皆)下兩叢鐵樹攅鬱。正廟七楹,堂楹之上,前使臣張學禮題「河山帶砺」 、汪楫題「永觀厥成」二〓倶在(臣等亦書「世篤忠貞」四字,懸其次)。堂西,神廚二楹;東爲佛堂,前後六楹−−旁三楹,爲曾廚
(『中山傳信録』より)
本年。遣使請封。時以那覇阻海。往來不便之故。命國相懷機。築長虹堤。(自安里橋。至伊邊嘉麻橋。曰長虹堤)築畢。懷機返愿。建神社并寺。名其寺曰長壽。(社及寺。倶今存)
(『中山世譜巻一』より)
ところで長虹堤の始点にあたる御嶽であったらしい「イビガマ」(中山世譜巻一『自安里橋。至伊邊嘉麻橋。曰長虹堤』)ですが、 前回の結論としては松山2丁目8番付近ということになったのですが…、 あらためて地図をみると、松山の風俗街のど真ん中じゃないかな…。
この辺り、夜に通るとポン引きで大変な場所ではないかと… (笑)。
というわけで、たぶん、この辺がイビガマ(笑)。 何にもないです。道も当時と方角が全く違います。
ではここから長虹堤跡を辿ってみますか…。
この琉球銀行の前で長虹堤跡は現在の国道 58 号とクロスします。
たぶん、こちらの方向に延びていたはず。
このあたりでクロスしていたのでしょう。
せっかくなので、戦前の長虹堤の写真(後述)を加工して、 クロスしていたと想像される場所に重ね合わせてみましょう。 これがかつての那覇と首里を結ぶ物流の大動脈の姿です。
で、さらにこの辺りを斜めに通過し…。
このローソンの先にある十字路辺りも斜めに通過して…。
この居酒屋の辺りで久茂地川と美栄橋として交差したと思われます。
対岸からは長虹堤のルートが道として残っています。
その横に見える小さな丘は「七つ墓」 (「七星山」とも呼ばれた)。
美栄橋からの久茂地川。
ここからは長虹堤が道として残っています。
その脇に立つ「新修美栄橋碑」。
で、その脇に歴史解説の碑が。 昨日実はこれを発見して「やられた」(笑)、と思っていたのですが、 長虹堤のルートなども解説されています。 まあ、こちらで想定したルートがほとんど間違っていないことが確認できただけでも、 よしとしましょう…。 長虹堤の戦前の写真までありました。うーむ。 なかなか探しても見つからなかった写真でしたが、こんな姿だったのか…。
ここで沖映通りを横断し、長虹堤ルートはそのまま十貫瀬の道となります。
ここから十貫瀬。
現在は十貫瀬終端はそのまま真っ直ぐ崇元寺橋に延びています。
しかし、 旧崇元寺橋 (かつて「安里橋」とも呼ばれた)は、 この直前の道を左に大きく曲がった場所にありました。
ということで、旧崇元寺橋はこの辺りで久茂地川と交差していたと思われます。
新崇元寺橋を渡ります。
この先に見えてくるのは崇元寺、 すなわち「中山先王廟」です。