さて、小浜島を 21km ほど走ったわけだけれども、 まだまだ全然走り足りないので、 ホテルで自転車を借り、今度は石垣島の南側をのんびり走ってみることに。 北側まで行くには、ちょっとママチャリでは辛すぎるし、 時間がもう 3 時だしね。
とりあえず西に走り、南西端の観音岬まで行ってみることにしました。
20 分とかからずに到着。 GPS でも確認。
ここには「唐人墓」(とうじんばか)という場所があるそうなので、 どんなところか知らねども、とにかく行ってみることに。
こんな場所です。
碑文を読んでみると…。 ふむ。そういう場所なのか……。 その後、ネットでいろいろ調べた情報と総合すると、 以下のような話らしい。
16 世紀以降、「苦力 (クーリー)」と呼ばれる中国人労働者が、 世界各地に送られていた。 19 世紀後半、奴隷貿易が終わったアメリカで、 労働力不足の補給のために注目されたのがこの中国人労働者であった。 1852 年、厦門からアメリカの船でカリフォルニアに送られることになった 400 人の労働者は、 船内での非人道的な扱いに反乱を起こし、船長など 7 人を殺した。
船は石垣島近辺で座礁。 当時は琉球王国であった八重山の政庁や島民はこの中国人労働者たちをかくまった。 しかし米英は島に砲撃を加え、武装兵を上陸させて捜索を行い、 中国人たちは銃撃、逮捕、自殺などでどんどん減っていった。 島民は彼らに食糧などを援助し、死者は丁重に葬られた。 関係諸国の協議の結果、 生存者 172 名を琉球の船で中国に送り返すことで合意、 これを契機に苦力貿易反対運動が盛り上がった。
この時の墓が点在していたのだが、 石垣市はこれらを合祀慰霊するため、 台湾政府、琉球住人、在琉華僑の支援もあり、 この唐人墓を 1970 年に建てることができた。 しかし当時は琉球はアメリカ占領下にあったため、 墓のいきさつをきちんと記すことはできなかったという。
うう、いい話ではないか…。 まだまだ私が知らないところにいい話は隠れているのですね。
この近辺にはさまざまな碑が集中して建っています。
ここからはきれいに海が見えるので、 海の方に行ってみます。
灯台の手前に、怪しい場所が。 やはり写真ではこの怪しさはあまり伝わらないんだけど、 沖縄を放浪していて気が付くのは、 生活のエリアや日常的な通行エリアと隣接して、 異様なオーラを発する空間があることです。 後で、 そのようなエリアの一部は「御嶽」(うたき)と呼ばれる空間であると知ったのですが、 そうでない場所も含めて、 沖縄の地にはこういうアニミズム的概念が生活に根付いているのが、 とても面白いと思います。
もう一つ、沖縄に関していつも思うことは、 生命の濃さが内地と違うのです。 ちょっと森の中を自転車で走れば、 左右を走る動物の音がガサガサと聞こえてきますが、 その密度が内地とは比較にならない。 キジムナー伝説などはこういう土地柄から生まれたんだろうなー、 と思います。
道ばたにふと生えているガジュマルの樹でも、 本当に神々しい感じがするもんね。
歩道はこの樹をよけているのですね。
とりあえず、途中から来るときとは別の道を通っていたら、 いつの間にか「キミ食堂」の横を通りすぎてしまいました。 みんさー工芸館が見えてきたので、 そろそろ夕方、ここをちょっと見たらホテルに戻ろうということにしました。
みんさー織の「五つと四つ」模様が「いつのよ」までも、 という意味だというのは「ちゅらさん」でも出てきたので (あの「結婚しようえー」のところね)、 結構有名ですが、左右の点線がムカデがモデルで、 足繁くおいで下さい (通い婚の風習かね) というのはあまり知られていない (^^;。 ここで若干おみやげを購入。
さて、海沿いを通ってホテルの方に戻りましょう。
ということで、今回の走行距離 17.2km、 小浜島での走行距離 21.0km と合わせ、38.2km ですね。 ママチャリにしてはよく走ったな…。
ということで、地図ですが、 どうも地図とプロットがずれている。 eTrex Vista の表示上では全く問題はなかったので、 おそらく MapFan に移すときの問題だと思います。
やっぱり慣れていない自転車では辛いな。 今度は飛行機輪行で Birdy を持ってきたいぞ…。