2007 年 4 月 27 日 (金) 那覇

琉球八社の一つ、天久宮(あめくぐう)。 住所から調べてみると、泊の外人墓地のすぐそばにあるようです。

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ありました。場所は沖縄県那覇市泊3丁目19-3。しかし、道からは鳥居以外に目立つ構造物がありません。 ここは、斜面に沿って神社があり、その最上部に鳥居があるという不思議な構造になっているのです。 従って、社務所をはじめとする施設は、すべて鳥居をくぐって階段を下ったところにあります。

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案内板はこんな感じです(現代仮名遣い、新漢字に直しました)。

お宮の創建は成化年間と伝えられる。(尚圓、尚宣威、尚真王時代、西暦1465-1487) 往古、銘苅村に銘苅の翁子が閑居していた。 或るとき、夕日の没する頃、天久野に威儀を正した法師を従えた気高い女人が山上より下って来るのに出会った。 中腹には小洞窟があり、井戸から水が湧き出て流れている。 翁子が法師に女人が何人なるかを尋ねると、法師曰く、 自分は山の中腹に住んでいるが、女人は山上の森に住む者で名前は分からないと答えた。 翁子は不思議に思い気をつけていた。 あるとき、女人が洞窟に入る時に、中途で消ゆるを見る。 翁子は驚き、事の次第を王の臣下に伝えた。 伝え聞いた時の王は虚実を試さんと役人に命じて、洞窟に向かって香を供えたところ、 それが自然に燃えたので、外に社殿を造営して祭った。 時に神託あり我は熊野権現なり、衆生の利益の為に現れたり。

かの女人は国家の守護神なり、弁財天であるとの神託があった。 またかの翁子も唯人ならず。

衆生は神変の加護によりて妄念を解くことができようと、神徳を重んじ国家安全、 万民豊楽の基のため、社殿を建立して祭ったという。

昭和19年の十・十空襲の折に社殿を焼失、戦後は御嶽形式により奉祀。 昭和47年旧2月22日本殿を建立、奉鎮祭斎行。本土復帰の昭和47年5月15日宗教法人となる、 同日神社本庁に包括され、現在に至り昔の素晴らしい社殿の復興と向後の発展を期せんとす。

御祭神
天龍大御神(先樋川)
天久臣之姫大神
泊龍宮神
弁天負泰彦大神
弁財天
 
熊野三神
伊弉冊尊
速玉男尊
事解男尊

ポイントはこんなところかな?

この鳥居のすぐ左に、下に続く階段があります (鳥居をくぐらずに行く方が自然な位置になぜか階段があるのです)。

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これが階段。

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ここを一段下りたところに、社殿や社務所があります。

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こちらが現在の社殿。

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この岩が斜面にあり、信仰対象となっているように見えます。 岩の上に登る階段があり、その上が拝所となっています。 拝所は、先ほどの入口にあった階段の上、駐車場の奥からも見ることができます (写真は撮ってません)。 洞窟が現在でもあるのかどうかなどは確認できませんでした。

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小さな弁財天堂が併設されています。

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かつてはどんな姿の神社だったのでしょうか? 不思議な神社でした。

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『マチグヮー近辺で昼食』に続く。


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