2004 年 11 月 22 日 (月) 糸満

真壁から内陸方面の細い道を通り、摩文仁方面に向かいます。

[image] [image]

途中で見つけた不思議な形のガジュマルの木。 木の右側でたき火をした人がいたのか、あるいは捨てられているゴミを燃やしたのか、 右側の根の一部が炭化して枯死していますが、 左側はそれでもがっしりと岩を掴んで生きています。

[image] [image]

ひめゆりパークの近くまでやってきました。 eTrex Vista の高度表示を見ると、 またしてもいつの間にか 100m 以上登ってきてしまったようです。

[image] [image]

そこからさらに少し坂を登ります。

[image]

そして一気に下りへ。風力発電の風車の向こうが摩文仁です。

[image]

平和祈念公園に着きました。

[image] [image] [image]

沖縄戦の犠牲者の名前が刻まれた石碑が並びます。

[image] [image] [image]

そしてその向こうには海が広がります。

[image] [image] [image]
(動画 2.24Mbytes)

彼方に見える小さな島は、たぶんニライカナイ信仰の天地開闢伝説の残る聖なる島、 久高島ですね。

[image]

振り返ってみます。

[image] [image] [image]

当時米軍は読谷近辺に上陸し、 今の国道 58 号のようなルートをたどって那覇に到達、 そして最後に日本軍が追い詰められたのがこの摩文仁の地です。 そっくり昨日から走ってきたルートなんですけどね…。

侵攻の際には、 ペリーが琉球に来た際に測量した地図を用いて作戦を練ったそうです。 150 年前からアメリカは、この島の戦略的位置を、 日本や琉球自身よりも深く理解していたと思われます。

ペリー艦隊には、日本がなかなか開国しない場合に、 琉球の武力占領を決行するというオプションがあったことは事実のようです。 その場合の仮想的な歴史を想像するのも興味深いところですが、 おそらくいずれにせよ後に日本とアメリカはこの島をめぐって争ったことでしょう。

[image] [image]

この中央の通りは、 沖縄戦終結の日である 6 月 23 日の日の出の方向を向いているそうです。 ちょうどその方向には久高島が見えています。

[image] [image]

日本軍の魚雷と米軍のキャタピラ。

[image] [image] [image]

さて、そろそろ午後 3 時になります。那覇に戻りましょうか。

[image]


『糸満で見つけた小さなマングローブ林』に続く。


このサイトへのリンクには何ら許可は必要ありません。 ただし、無断で写真をダウンロードして他の場所に掲載したり、 画像加工の素材として利用するなど、再配布に当たる行為はしないようにしてください。 また、このサイトへのリンクであることを明示すること無しに <img src="..."> などで他のページの内部に画像ファイルを取り込むことも、 ご遠慮下さい。