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さて、それでは旧東西ベルリンの検問所でもある、 チェックポイント・チャーリーに行こうということで、 ポツダム広場から東側に向かいます。
ちょっと目測を誤ったのか、 東側の街並みに入ってしまいました (建物が西ベルリンと雰囲気が違うので、 非常に良くわかります)。 あらためてマジメに地図をみると、この道を曲がっていけば、 チェックポイント・チャーリーに出るようです。 というわけで、 旧東ベルリン側からチェックポイント・チャーリーに向かうことにしましょう。
進んでいくうちに、謎のオブジェが前方に見えてきました。
何じゃこりゃ? 旧東ベルリンの、 良く言えば落ち着いた街並みの中に突然現れた謎の物体です。 ガイドブックをみると、どうやら House Ball というものらしい。
言われてみると、 たしかに家財用具らしきものがペタペタと張り付いているのですが…。
さて、さらに進みましょう。
200m ほど進むと、前方に、NEUE ZEIT と書かれたビルが見えてきました。 「新時代」。これって新聞社か何かでしたっけ。 ちなみに、その前に置かれているオブジェは、 国境警備の監視塔のなれの果てのように見えるのですが…。
ここで右を向くと、そこが旧東西ベルリンの検問所跡である、 チェックポイント・チャーリーです。 ここを強硬突破しようとして亡くなった人も多いのでしょう。 ちなみに今ではこの検問所から真っ直ぐ東ベルリン側に通じるフリードリッヒ通りは、 東ベルリンの新しいショッピングエリアになっています。
東から西に向かう方の看板は、 西から東に向かう方にある文章に比べ、 若干長い文句が書かれています。 当時の統治の状況を反映し、 英語、ロシア語、フランス語、そしてドイツ語の 4 つの言語で記述されています。 英語では、
YOU ARE ENTERING THE AMERICAN SECTOR
CARRYING WEAPONS OFF DUTY FORBIDDEN
OBEY TRAFFIC RULES
…とのことです。
ちなみに、西から東に向かうの文句はこれだけ。
YOU ARE LEAVING
THE AMERICAN SECTOR
ただ、このシンプルな文句がどれだけの重さを持っていたかということは、 たとえば春江一也『プラハの春』などにも書かれています。 しかし、最近感じるのは、 我々の世代が 70〜80 年代にソ連や東欧諸国に持っていた、 恐怖や未知や畏怖が混じりあった感覚、 そしてそいつらがあれよあれよといううちに、 いつの間にかいなくなってしまった、という事件の持つ意味は、 今の若い人にはもう本当の意味では理解されないということですね。 もはや子供たちには、 ソ連はローマ帝国と同様、 歴史教科書の中だけに存在する国なのでしょう。 多分、 我々の親の世代には敗戦というものがかなり大きな意味を持っていたのと同様、 我々の世代のさまざまな歴史観のようなものを形成するのに、 ソ連や東ドイツの消滅と東欧諸国の非社会主義化というのは、 かなり大きなウェイトを占めているのではないかと思います。
昔は装甲車やら戦車やらがいた場所も、 今はタクシーやら自転車やらが平気で通りすぎていく場所になっています。
しかしここが、 50 年代末のハンガリー、 60 年代末のチェコスロバキア、 70 年代末のアフガニスタンと、 ほぼ 10 年ごとに起こった大きな事件たちの総仕上げが、 80 年代末に起った現場なのですよね。
チェックポイント・チャーリーに併設された資料館。 入り口の横の壁には、 壁のあったころのベルリンの地図が張ってあります。
壁にはさらに、「壁」の一部分が張ってあります。
はい、中を見てきました (写真はないです)。 ぜひ、一見をお勧めいたします。
表からも一部展示物が見えます。 ちなみに、「壁」だけではなく、 チェコスロバキアのプラハの春事件や、 ポーランドの「連帯」などに関する資料も置かれています。
こんな感じの場所です。
この「Deutsche Democratische Republik」というプレートの入ったポールは、 国境を示すものなのかしらん?
と、いうわけで、西側からチェックポイント・チャーリーを通して、 今や旧東ベルリン側の新しいショッピングエリアとなったフリードリッヒ通りを望みます。