例の倉木麻衣パクリ騒動の現場を Web で見に行く。暗澹たる気分になる。
そもそも、この騒動がこれだけ大きくなってしまったのも、 「パクリ」という言葉の曖昧さに起因する部分がかなり大きいと思う。 「パクリだ」という人は広義の二番煎じ的意味で使っている人が多いし、 「パクリでない」という人は、それを狭義に解釈して、 盗作ではない、と、厳密な方に話を持っていってしまう。 結果、永遠に話は噛み合わない。まあ、別にそれでもいいんだけど。
私は、俗に「パクリ」とか言われているものに関しては、 寛容な方だと自分では思っている。 特に、洋楽オタクな人々のスノビズムに関しては、 彼らが嫌うクラシックオタクな人々のスノビズムと同様だと思っているし、 声だの雰囲気だのが似ている云々の「パクリ」というのは、 「パクリ」という言葉を使うこと自体が間違い、 あるいは不適切だと考えている。 だから矢井田瞳、全然大丈夫 (^^;。
また、論争の中で、こんなパクリが許されているのは、 アートの中で音楽だけだ (あるいはもっと狭く日本の音楽界だけだ)、 なんていう意見もみられるが、大嘘だろう。 たとえば極端な例は映画。 洋の東西を問わず、 「他の作品の作風からの影響」等は言うに及ばず、 シーンや演技、 そしてアクションなどのそっくりそのままコピーまで堂々とまかり通っているが、 それが問題になったなどという話はあまりきかない。 むしろ見事な「パクリ」は、 オマージュとして肯定的に評価される。 「マトリックス」を、 ジョン・ウーや押井守のパクリとして本気で怒っている人がいたら、 それは結構外していると思う。
はるか昔の話で言えば、 たとえばミケランジェロが「最後の審判」を描いた途端に、 それまでチケットのモギリみたいに描かれていた「最後の審判」というモチーフが、 いきなり誰が描いても天地が引っくり返る大スペクタクルになっちゃったりするんだよね。 昔からみんな、アーティストなんてものは、 偉大なる作品をパクってなんぼのものだったんじゃないかな。
映画界のパクリ大王としては、 香港に王晶 (バリー・ウォン) という監督がいる。 この人は本当に臆面もなく、 オマージュなどと言う弁護も全く効かないような物凄いパクリをするが、 そのかわり本当に面白い映画を作る。 こういうパクリの才能は、 それ自体評価しても良いものであろうかと思う。 厳密なオリジナリティ至上主義は、 最近流行りの知的所有権ゴロにでも任せておけば十分だ。
そういえば以前、今回の浜ちゃんじゃなく、 松ちゃんが『シュリ』のパクリを許せないと雑誌に書いていたことがあるが、 僕にとっては『シュリ』のパクリはなかなか気に入っていて、 むしろパクリ万々歳である。 同じ原稿に書いてあった「『踊る大捜査線 THE MOVIE』でのパクリはもう論外」、 という点については完全に同意するが。
では、結局僕にとって、 この『シュリ』と『踊る大捜査線 THE MOVIE』の間で、 「許せる」と「許せない」の境目が存在しているというのが、 宇多田ヒカルと倉木麻衣の間の関係にも似ている気がする。 計算機系の言葉で言うなら、 「iMac」と「e-one」という方がわかりやすいかな? (Apple も訴える必要なんてないのにね。 まあ、今回の騒ぎは Sotec が Apple を訴えたようなもんだが…)
宇多田ヒカル、 杜撰な議論風に単純に言ってしまえば、 単なる洋楽のパクリである。 あたりまえ。 突き進めれば、ギター持っていればパクリ、 12 音階使っていればパクリ、 音出していればパクリなのだ。 生きていくこともパクリかな? それを人はどこかで線を引く。 そもそもアートの世界に完全なオリジナルなど存在するはずがない。 許せるパクリと許せないパクリがあるだけだよね。
今回、これだけこの騒ぎが大きくなったのは、 やはりかなりの人々が、 浜ちゃんの発言に「俺もそう思ったよ」と感じたから、 という理由を否定することは難しいだろう。 そして、それらの人々では、その「境界線」を越えていると見なされたのであろう。 そもそもパクリが許せるかどうか、 あるいはパクリとそもそも見なすかどうかには、 単純な境界線では分けられないいくつもの要素があると思う。 たとえば、ざっと考えてこんな感じだろうか。
じゃあ、 『踊る大捜査線 THE MOVIE』はなんで許せなかったのかな? やっぱり、パクリ部分と自分達のオリジナリティの部分が、 妙に噛み合ってなかったというのが、最大の原因ではないかと思う。 そこが妙にチグハグで、 作っている本人たちのオマージュ的思い入れが、 一人で空回りしているように思えたというところだろうか。 ああ、上の 4 要素でも計り知れない依存関係だな。
今回の倉木麻衣騒動の「パクリ」の論点は、 楽曲や PV という「作品」を似せた部分と、 その他ゴシップ的情報の捏造的部分があり、 分けて考えるべきであろう。
個人的には、たとえば楽曲はさほど似ていないと思うし、 無難に別に悪くはないと思っている (というより、本人の声質が違うので、 似せようにも限界がある)。 詞は…、まあ、 宇多田がもっともオリジナリティを発揮した部分の一つだと思うので、 置いておこう。分が悪い。 初期の PV は似せているのが見え見えでげんなりする。 『大捜査線』にげんなり来たのと似たような気分だが、 こっちの方がダイレクトに商売っ気が伝わってくるだけ気分がより悪い。 最近のは ZARD みたいで、まあ、 これはビーイングの様式美として認めてあげてもよい気もする。
インディーズ会社を US にでっち上げて、 無理やり全米デビューということにして、 即日 SOLD OUT なんてプロフィールを「作って」いるのは、 かなり困ったものであると思う (今でも公式ページのうたい文句が当時そのままなので、 売りだし当時のセールストークを見たければ公式ページに行くのが簡単)。 というか、 「とりあえずそういうプロフィールがあれば売れるだろう」という、 客をバカにしているようなイメージをどうしても持ってしまう。 もちろん、 商売にそうしたセンスが必要なのは当然だが、 こういう杜撰な小細工をする方もする方だろう。
で、こんな姑息なことをするだけしておいて、 テレビで突っ込まれたら、いきなり内容証明送りつけるというのは、 なんだかなぁ。 前は、確信犯的なものかなぁ、 と思って楽しく見物していたのですが、 今回の騒動で、いい加減嫌気がさしました。 まあ、主に事務所的方面になんですけどね。 本人には基本的に同情してます。 だって、今事務所離れたらやっていけないでしょう。いくらなんでも。 一蓮托生するしかないからね。
ああ、やだやだ。